2023年度入寮式

入寮式

登戸学寮

  2023年4月8日

司会 濃野 開

前奏

讃美歌     270番

聖書朗読    詩編1篇

祈祷   

挨拶      理事長 小島拓人

祝辞      理事 福嶋美佐子

歓迎の言葉   寮生  川口陽久

            中村真子

歌唱    井村咲月 「花」武島羽衣作詞 瀧廉太郎作曲

新入寮生スピーチ 

 石井裕人、海老原薫、大友康、金城明樹、佐々木拓海

須貝真琴、関島樹、高田聖也、龍野実咲、野田明伸

浜崎航希、松井はんな

式辞      寮長 千葉惠

讃美歌     158番

祈祷   

後奏

記念写真撮影

登戸学寮入寮式挨拶

                          小島拓人               

・皆さん今日は! 理事長の小島拓人です。

・今年の4月からの新入寮生は12名です。今年は男子寮24室が満室になりましたが、これはここ十年間なかったことです。新入寮生の皆さん、それぞれの大学への入学、あるいは登戸学寮への入寮おめでとうございます。またオンラインでご参加頂いている何組ものご家族の方々にもお祝いの言葉を述べさせて頂きます。

・このところ新型コロナウィルス問題で大学キャンパスも様々な制約を受けましたが、やっと入学式や授業等は制約もなく行われるようになったのでしょうか。登戸学寮も新入寮生が揃った入寮式の開催が出来ますことは先ずは大変喜ばしいことであります。

・過去3年間の新型コロナウィルス問題で人と人の接触が様々な形で制約される大学のキャンパス生活でありましたが、それは人と人が直接触れあうことの価値を再発見する機会でもありました。そしてそのキャンパス外での人と人が直接触れあう共同生活を行う場が登戸学寮です。

・その登戸学寮ですが、今から65年前の1958年に創立者黒崎幸吉先生によって設立されました。聖書にある「汝ら、若き日にその創造主を憶えよ」という精神的指針の下に設立されました。登戸学寮は聖書の学びを基本にキャンパス外での共同生活を重視するものでありますが、社会に於けるその存在価値は65年後の今日も設立当初のそれに勝るとも劣らぬものであると認識いたしております。そしてその登戸学寮は寮生の寮内での共同生活以外にも寮外での様々な活動を支援するプログラムも計画しております。一例を挙げますと国際学会での研究発表の支援をしており、それを契機に欧州の大学に留学されそのまま現地で活躍されている寮生OBがおります。また、日本の伝統工芸を調査してその復興を試みる寮生もいました。登戸学寮はこうした寮外活動も大いに支援しておりますので、皆さん千葉寮長ご夫妻の指導の下、こうした共同生活のプログラムも大いにご活用頂きたく思います。

・今日の社会は日本も世界もこの3年間は新型コロナウイルス災禍に振り回されてきました。そしてこの一年間、ロシアのウクライナ侵攻で、世界は大きく揺れ動き、今日は世界史に大きな時代の転換期が予見されている難しい時代です。そうした中でも、春の到来とともに学寮は今年も新入寮生を迎える季節となり、学寮は皆さんと共に今年も新しい歩みを始めます。「揺れども沈まぬ」というのはフランスのパリ市の歴史を経たモットーだそうですが、世界がどの様に揺れ動いている中にあっても登戸学寮の存在意義は不動であります。「世界は揺れども登戸学寮は沈まぬ」という希望の下に登戸学寮は新入寮生を迎えて新年度を始めたく思う次第であります。

・今年の入寮式の開催にあたり、改めて皆さんの入寮をお祝いし、歓迎と期待のことばを申し上げて私の挨拶とさせて頂きます。

・皆さん入寮おめでとうございます。

入寮式祝辞

福嶋 美佐子 

新入寮生のみなさん、ならびにご家族のみなさま、ご入寮おめでとうございます。私は、大学でキャリア教育を担当する教員です。実は私自身も、新しい職場にワクワクしながら通い始めている新入生です。

 先程、初めて聖書を読み、讃美歌を歌った新入寮生もいると思います。しかし、決して「クリスチャンになりなさい」ということではありませんので、安心してください。それは神さまがお決めになることで、私たちが思い煩う必要なないのです。しかしながら、教養としてキリスト教を知っておくことは、絶対に得です。例えば、なぜ1週間は7日で、日曜日はお休みなのでしょう。それは、旧約聖書の冒頭に書かれています。また、明日はイースターですが、アメリカのホワイトハウスでは毎年エッグハントという卵探しゲームが行われ、全世界にニュースが配信されます。イースターについては新約聖書にイエス・キリストの生涯が描かれていますので、それを知ればエッグハントにも納得できます。このように、キリスト教を知ることで、世界中の人たちと仲良くなるための基礎を作ることができます。

 私は、世界中の人と仲良くするにはどうしたらよいか、を考える研究者です。“Diversity, Equity & Inclusion”、日本語に訳すと「多様性、公正、受容」を専門としています。そのような立場から、登戸学寮における多様性をご紹介します。この登戸学寮には新入寮生12名を含め37名の寮生がいますが、所属する大学は20以上にのぼります。しかも、自然科学を学ぶ寮生や人文・社会科学を学ぶ寮生もいれば、芸術家や宗教家の卵もいます。一つのキャンパスにこれら全ての分野を備えている大学はないでしょうから、どの大学よりも豊かな才能が集まっていると言えます。また、国籍も様々ですので、インターナショナルでもあります。このような横のつながりから、大学の中だけでは得られない刺激を受けることでしょう。

 登戸学寮には縦のつながりもあります。先輩です。学寮内には、様々な特技を持つ先輩がいますので、レポートの書き方やアルバイトの見つけ方など、学生生活で困ったことは何でも相談できます。もちろん、寮長は大学教授をなさっていた方ですので、寮長ご夫妻にも頼れます。頼れる先輩は学寮内だけではありません。今年で65周年を迎える登戸学寮は、みなさんからいただく寮費だけでなく、大先輩を中心とした多くの方からの寄付金で運営されています。そのような資金は、みなさんの学びを支えています。例えば、様々な活動を応援する「寮生活動支援制度」です。この1~2年を振り返ると、海外での学術学会発表や短期留学の費用の一部に充てた寮生がいました。身体障害者の疑似体験を通じて感性を研ぎ澄ます施設への寮生ツアーを企画し、交通費や入場料を申請した寮生もいました。あるいは、学寮内で読む書籍の購入を希望している寮生もいます。ぜひ、積極的に活用してください。

資金面だけでなく、先輩自身がみなさんのために時間を割いてくださることもあります。例えば、季節ごとに開催されるキャリアフォーラムです。様々な分野で活躍される、みなさんより少しだけ年上の先輩の経験を伺うことで、どのように学生生活を送るか、その後の就職を含めた人生設計をどのようにするかを考えるきっかけになると思います。

 ところで、みなさんは「イノベーション」という言葉を聞いたことがありますか。100年ほど前のシュンペーターという経済学者による理論です。イノベーションとはゼロから何かを生み出すことと思われがちですが、シュンペーターは「既にあるものとあるものを組み合わせることによって新しい物や仕組みが生み出されること」と定義しています。ですから、初めは「新結合」と呼ばれていました。みなさんも、この学寮での生活を通じて、横のつながり、縦のつながりを最大限に活かして自分の中にイノベーションを興しましょう。そうすることで、卒寮する頃には誰にもまねのできないユニークな存在になっているはずです。登戸学寮を支える大勢の方が、みなさんを応援します。私も全力で応援します。

 

入寮式式辞

                                  千葉 惠 

 入寮なさった12人の皆さん、おめでとうございます。新しい環境での新しい生活、希望ととまどい、少しの不安を抱きながらも出会いを楽しんでおられることでしょう。何かのご縁です、三十七人の共同生活による学寮の新たな船出、Welcome on board、心から歓迎します。21世紀に入り、四半世紀が経とうとしています。ここでは現代社会を特徴づける情報革命が作る社会と学寮の創立精神であるキリスト教の関係について共に考えてみたいと思います。日進月歩の変化の時代にあって変わらないものに思いを馳せ、わたしどもの共同生活における一つの挑戦を明確にしたいと思います。皆でこの方舟の正しい進路を見定め、漕ぎ出してまいりましょう。

最初に聖書の言葉を皆さんにプレゼントします。詩篇139篇

 主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計(はか)らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる(Ps.139:1-10)。

 2000年以上前のイスラエルの詩人によって永遠の現在にいまし働いています全知、全能の神への認識、賛美を皆さんがどのように受け止めるかはお任せします。ここでは眼差しを地に向けます。君たちは21世紀になってからのお誕生であり、IT nativeと呼ばれる世代です。生まれながらにインターネットに繋がれたインフラのもとで生活を始めました。19世紀の産業革命は生産性を著しく向上させ、1820年頃の経済成長の大爆発以来人々は一貫して豊かになり続けています。ここで経済的な豊かさの指標を考えてみますと、例えば人口の100パーセントが農業や漁業等狩猟に従事している世界を想定してみましょう。そこではすべてのひとが食べるために働いており生存ギリギリの状況におかれているとことを意味しています。そしてそのような時代が長かったのです。産業革命が生起し、工業化による分業のもと労働の効率化、大量生産がもたらされ、或る人々は様々な製品に囲まれまた余暇を持ち、スポーツや芸術、学生等自らの関心や趣味に即して快適に時間を費やすことができるようになりました。それが経済的な豊かさです。私どもは人類史上最も豊かな時代におり、ルイ14世も享受できなかった料理を食べ、医療を受け、多様な夢、目標に囲まれています。

 20世紀後半には皆さんご存じの情報革命が生起しました。この科学技術の革命的な進化は世界中を瞬時に繋ぎ、わたしどもの政治経済、社会そして仕事、遊び、買い物にいたるまで人々の繋がりの様式を一変させました。わたしどもはこの革命の渦の中にいやおうなしに巻き込まれ、SNS等この情報社会の枠組みのもとで生活が営まれています。この人類の知性の勝利とでもいうべき革命は生活のすみずみまで恩恵を注ぎました。一例を挙げるのをお許しください。1985年に私は鞄ひとつもって誰ひとり知る人のないイギリスに哲学の修行にゆきました。達磨が壁に面して座り続けたように「面壁十年」と師匠から励まされ、友人からは「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という歌により送り出されました。君たちもこの歌にあるようにちょうちょうが一匹ひらひらと荒海の韃靼海峡をわたっていくそのような心細い状況に今の自分を重ねているかもしれません。五年の留学の長い話は省略しますが、当時わたしはタイプライターを使っておりました。しかしPCつまり文字通りパーソナルなコンピューターと呼ばれる学生でも手に入れることのできる論文執筆の道具を得ました。Cut and Pasteとか上書きoverwriteとかその他論文執筆に革命的な進歩をもたらしました。タイプライターを使っていたら博士論文執筆に10年はかかったであろうと思います。効率的なまた戦争のない時代、庶民でも留学できる良い時代に生まれたたことを感謝しました。これは一例にすぎません。生物としての人間の分子レヴェルにおける解明が医学に長足の進歩をもたらし、不治の病を癒してきました。三年苦しんだコロナウィルスによる感染症も収束をむかえています。科学技術、医術が農業や工業、流通その他の進歩を伴い現在この惑星に80億の人々が暮らしております。これは人類の一つの勝利であると思います。

産業革命とそれに続く情報革命、この人類史未踏の成就、特筆すべき勝利は、他方、動物としての身体を抱える生身の人間とその身体性を軽視させ損なわせるほどの過度の情報処理の日々が全体としての人間性を蝕んでいるのではないか、この人類は持続可能なのか新たな課題をつきつけています。AI(人工知能)は情報処理速度において人間の能力を超えています。ChatGPTとその進化系は政策立案から学術論文まで代わって書いてくれるということです。人類は自らの知性が作った人工物の知性の奴隷と化するのかが問われています。このような知性の革命のなかで変わらないものとして、ひとは社会のなかで他者と共に生きており、誠実や信頼、正義そして愛など心魂の善と悪の態勢にかかわる道徳的存在者であり続けます。AIによる情報処理の量が膨大になるとき、認識や判断の質も改善するか例えばより良い法律が発布され正しい人間を作るかは一つの問です。AIは倫理的問をこれまでの人類の経験をもとにして普遍的な次元或いはその事例において認知的に処理することでしょう。他方AIはそれ自身としては倫理的問題を抱え、人格的に良心の咎めに苦しむことはありません。

われわれ人類にこそ真理と偽りに関わる知性と善と悪の価値に関わる人格の綜合が問われているのです。一方明晰な知性の働きがものごとの本質を見究めさせ、他方人格が陶冶されたか否かはバランスの取れた感情の生起や公平な行為の選択において証明されます。自分を勘定にいれずによく見聞きし分かり、そして忘れず、広い視野と遠大な構想の中でその都度行為を選択していきます。君たちはその修行の時代として青春をこの学寮で過ごすのです。

  IT革命がもたらした人間の可能性は仮想空間をもたらし、人間の空想や創造性を飛翔させます。現代の課題の一つは、かつては私どもの頭脳の思考に基づく文章や絵画のなかにあった仮想的現実(Virtual reality)が技術により二次元、三次元さらには多次元なものとして映像により提示されたり、何らか実現されるに至っています。ユヴァル・ノア・ハラリは人間が神になる可能性を論じた『ホモデウス』のなかでこう言います。「たとえ私たちが生きているうちに不死を達成できなくても、死との戦いは今後一世紀間の最重要プロジェクトとなる可能性が依然として高い。人命は神聖であるという私たちの信念を踏まえ、そこに科学界の主流のダイナミクス(力動性)を加味し、資本主義経済の必要性まで合わせれば、死との執拗な戦いは避けられないように見える」(上p.41柴田裕之訳)。自らの分身アバターが仮想空間で不死身であるとか多様な経験をするなど現実世界と仮想世界の境界がますます判別不明なものになってきています。現実には生じ難い世界の経験はそこから戻った現実世界を豊かにし充実させることもありましょう。或いはその頽落・堕落形態として、現実世界を引き受けることをせず仮想世界に逃避することもありましょう。

「現実」という言葉により二つのことを、一つにはそのもとに生が営まれる与件のことをまたその与件のもとで培ってきた各人の知性や人格の実力、現在地点のことを理解します。与件Givenとは選択できず与えられた特徴や制約、時代状況等を意味しています。例えば家族構成とか身体つきとか出身地等、自らの現実を構成しているものです。その現実に対する受け止めはひとにより異なり、家族や周囲への感謝とともに、或いは自らの運命の嘆きとともに受け止めるひともいましょう。もうひとつはこれまで培ってきた自らの心魂の認知的態勢、人格的態勢、実力のことを理解します。有徳なひともいれば悪徳なひともいます。これは各自の責任のもとに培われた心魂の態勢のことです。これら与件や態勢の特徴や制約のもとでこれからの自らの生を責任をもって構築するために、他の誰かや社会のせいにすることなく、自らの現在地点を正面から引き受ける覚悟が求められます。変えることの出来ない現実は受容し、変革しうるまたすべき現実は勇気を以て変革していきます。

人生には従来「通過儀礼」と呼ばれてきたものがあり、江戸時代では十代半ばで元服し或いは嫁ぎなどし、年齢にふさわしい通過儀礼を適切に乗り越えることがもとめられます。大学受験は現代の通過儀礼の一つであると言えましょう。日本の教育システムのなかで受験は君たちにとってのっぴきならない現実であったことでありましょう。それを通過し晴れて君たちはここにいます。この与件と態勢のもとに自らの人生を構築していきます。受験から解放され、主観的にはのっぴきならないものが何もないとしたなら、その状況が客観的にはのっぴきならない現実であると言えます。高校までの教育においてはせいぜい100点しかとらせてもらえなかった世界にいましたが、そこから今度は自ら問を立て正解を探求する日々にかわります。探求対象は自然に書き込まれた法則というテクストであったり、聖書等の人間を超えるものについての証言として書かれたテクストであったり、社会のしくみ(制度、法律)というテクストであったりします。これらのテクスト即ちものごとの理(ことわり)が探求されます。わたしどもは真理の大海原の前に立っています。喜ばしい探求に船出するのです。この学寮では人間であることの真実を探求したいと思います。

かくして、現実世界と仮想世界双方をまたこれまでの人生と構想されている未来を媒介し統一するものが求められています。各人がこの身体をかかえており、この時空のなかで営まれる自らのリアルな・実際の人生を通じて、ものごとの理を見究める認知的な能力と身体において他者と交わるさいに課題となる人格的な能力を統一する生の原理を見つけていくことが求められています。というのも、基軸はあくまでもこの一回限りの時空に生きる各人の私である限り、一方現実への過度の埋没は視野を狭くするでしょうし、他方仮想世界への逃避や依存は、自己の分裂を引き起こし堅固な自己同一性を失わせるからです。この自己はどこでその分裂が癒され自己自身との一致において満ち満ちて生きるのか、その心魂(こころ)の場はどこまでも問われ、探求されます。学寮はこの分裂を癒し一致をもたらす媒介者はまことの人にしてまことの神の子であるイエス・キリストであると信じてきました。

仮想世界に逃れ目先の楽しいものごとを追求するとき、それは分裂を忘れさせる気晴らしと位置付けられます。聖書は目に見えない天使や聖霊を語る一つの仮想世界と言えます。しかしそれは空想ではありません、神の意志が歴史に刻まれている限り。なお、受け取る側として誰もが神的なものに反応しうる心魂の能力が与えられているという前提のもとに聖書は議論を展開しています。身体の底にある「内なる人」と呼ばれる心の部位は神的な促しに反応し「神の意志」等を知る「叡知ヌース」と聖霊を受領する「霊プネウマ」によりその都度構成されます(Rom.7:24,2Cor.4:16))。信により開かれる心魂の根底・二番底における今・ここの働きこそ、パウロの言う「身体は罪のゆえに死であるが、霊は義の故に生であって、死すべき身体をも生かす」内的統一を可能にします。(Rom.8:10)。「たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なるひとは日々新たにされていきます」(2Cor.4:16)。この内的生命の横溢は信仰の果実であると同時に信仰への贈りものなのです。魂における信の根源性を探求したいと思います。

 神はご自身に似せて人間を創造されたと聖書にありますが、詩篇の詩人はこう賛美します。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました」(Ps.8:4-7)。詩人は問い求めています、人間は何ものなのかと。神は知性を持つ者として人間を創造し宇宙の法則・理(ことわり、ロゴス)を伝授しまた生物を治めるよう栄光を与えてくださいました。詩人はこの神に賛美を帰しています。パスカルも驚きのなかでこう言います。「人間とは何という怪物、何という珍奇、妖怪、混沌、矛盾の主、何という驚異。・・真理の受託者にして、曖昧と誤謬のドブ、宇宙の栄光にして、宇宙の廃物。この縺れを誰が解くのか」(『パンセ』434)。わたしどもは宇宙の栄光であり曖昧と誤謬のドブです。私たちはこの興味深い世界に生を与えられたこと、それぞれの現実を正面から引き受けて驚異すべき人間として生きていることそのものの喜びのなかで、人間であることの縺れを解いていきたい。共同に人間の探求をすすめていきたいと思います。

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